クリスマスに寄せて

クリスマスですね。皆さんいかがお過ごしでしょうか。クリスマスというのはカップルがいちゃいちゃする日でもなくせいなる日でもなく、イエスキリストの誕生を祝う日です。誕生日と言わないのは、実際に生まれたのは春先ではないか?という説があるからです。まあそういう話は今回置いておいて、なぜイエスキリストの誕生日を祝うイベントがこんなに続いているのか、その意義を確認しながら見てみましょう。宗派によって微妙に解釈が違うところがあるかもしれませんが、大切なところはずれていないはずです。まあこんな話を信じるなんてと思うでしょうが、教養として知っておいてもいいと思いますよ。

 

 

話は世界の始まりまでに遡ります。キリスト教では、この世界は「神」によって創造されたとしています。我々人間も同様です。神は、神に似たものとして人間を創りました。まず最初に創られたたのはアダムという男性です。聖書から引用してみます。

「神は仰せられた。『さあ人をつくろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。』」(創世記1:26)

しかし神はこれで満足しません。「人が一人でいるのはよくない」として、エバ(イヴという呼び名をよく聞くかもしれませんが、僕の持っている聖書(新改訳 第三版)ではこのように訳されているので、それを採用します)という女性です。また聖書を見てみます。

「神である主は仰せられた。『人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。』」(創世記2:18)

「神である主は、人(アダムのこと)から取ったあばら骨をひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れてこられた。人は言った。 『これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女(ヘブル語で『イシャ』)と名付けよう。これは男(ヘブル語で『イシュ』)から取られたのだから。』」(創世記2:22-23)

まあこの男のセリフは世界初のラブソングみたいなものです。神曰く人が一人でいるのはよくないそうです。そうですか。 さて、2人はエデンの園というところにぶち込まれ、ほかの生き物に名前をつけろなどという指示を神から受けます。そして、エデンの園にある「善悪の知識の木の実」以外は好きにとって食べて良いと言われます。

「神である主は仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からはとって食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。』」(創世記2:16-17)

しかし、あるとき蛇がエバをそそのかします。「あらゆる獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。」(創世記3:1) 善悪の知識の木の実を食えば賢くなるから食べてみろというのです。その誘惑に負けたエバはアダムに一緒に善悪の知識の実を食べるようそそのかします。この頃から男は女に弱いようで、結局2人とも善悪の知識の実を食べてしまいました。

「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。」(創世記3:7)

これが、キリスト教での大切な概念である「罪」の始まりです。

「彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園を歩き回られる神である主の声を聞いた。そこで、人とその妻とは神である主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。 神である主は人に呼びかけ、彼に仰せられた。『あなたはどこにいるのか』。 彼は答えた、『私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。』 すると、仰せになった。『あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか』。 人は言った。『あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです』。 そこで神である主は女に言われた、『あなたは、いったいなんということをしたのか。』女は答えた。「蛇ががわたしを惑わしたのです。それで私は食べたのです。』」 (創世記 3:8-13 )

もちろん、神は食べるなと言ったものを食べたことを責めます。するとアダムはこれをエバのせいにするのです。なんという奴でしょう。そしてエバはこれを蛇のせいにします。彼らの姿に共通するのは、自分たちの犯した「罪」を認めず、他のもののせいにすることです。これも、善悪の知識の木の実を食べてしまったことによる「罪」です。

しかし、最も大切な「罪」は神から逃げ隠れしようとしていることです。神の「あなたはどこにいるのか。」という問いは、場所の意味だけでなく、神との関係においてどこにいるのか、という問いとも言えます。神と向き合い、神に従っていた人が、神から離れてしまったのです。

こうして彼らに罰が下ります。蛇は足を奪われ、地をはう生き物になってしまいました。女は苦しんで子を産まなければいけなくなりました。男は苦しんで食を手にいれなければいけなくなりました。そして、いつかは土に帰り、死んでしまうことを運命づけられました。もちろんエデンの園からは追い出されます。

さてここから人間はさまざまな「罪」を犯します。アダムとエバの間には、カインとアベルという二人の息子ができますが、なんとカインはアベルを殺してしまいます。また、時間が飛びますが、有名な「ノアの方舟」の話は人間が全然神のいうことを聞かず「罪」を犯してばっかりだからノアの家族と動物以外抹殺しようというものです(雑)。 さて、果たして人間はもう「罪」の奴隷となり滅び行く存在のままになってしまったのでしょうか。そうではありません。神は人を愛しておられました。だからこそ、なんとかして人間を「罪」から救おうとしたのです。そこで鍵を握るのがイエスキリストなのです。

 

まず、神は「三位一体」である。という話があります。神は「父なる神」「子なる神」「政令なる神」の三種類あります。これらは別々なのですが、深い「愛」のために一つとみなせる、というのが「三位一体」です。そして、イエスキリストはこの「子なる神」にあたります。上で出てきた神は「父なる神」です。

さて、神の人間を救う計画はざっくり言うとこうです。まず、「子なる神」をイエスキリストという一人の人間として地上に下ろします。このイエスキリストは人間であると同時に神であり、人間と決定的に違うところは「罪」がないということです。そしてご存知の通り、イエスキリストは十字架という最も重い刑に処せられ、死にます。これは本来「罪」にまみれた我々人間が受けるべき刑です。それを「罪」のないイエスキリストが肩代わりしてくれたのです。そして驚いたことにイエスキリストは死んで三日後に「復活」します。これをもって、「罪」からの勝利とするわけです。そして、これらのことを信じる人間は、「罪」が赦され、「永遠の命」を手に入れることができる、というわけです。

つまりは、このイエスキリストというのは、人間を罪から救う「救世主」なんですね。だから、イエスキリストの誕生はめでたいわけです。

 

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」(ヨハネ福音書3:16-21)

 

「罪」の始まりに行を割いてしまったような気がしますが、まあいいでしょう。ざっくり言えば罪からの救い主の誕生だからこんなに祝われるということです。本当はイエスキリストの誕生がどんなものであったかも書いておくべきなのかもしれませんが、これくらいにしおきましょう(笑)。