「生きる意味」は必要か? 【12/18哲学カフェ】

とある哲学カフェにお邪魔した。テーマは「生きる意味は必要か?」 テーマから逸れる話もあったが、面白いと思ったものを中心に議論をまとめながら、自分が考えたことを述べたい。なかなか詰めきることができず、妥協した部分が多いがご了承頂きたい。

インカレの哲学カフェ団体で、Twitterアカウントから詳細を知り応募。テーマがテーマなので参加人数が多かった。適当なカフェに行き、そこで議論をするというスタイル。僕はアーモンドチョコシェイクを頼んだ。甘かった。


以下議論の記録。
興味深い話は多かったが、私的な部分も多く割愛した部分もある。

生きる意味の喪失
例えば、「真理」を追い求めている科学者が、もし「真理」を見つけてしまったら、満足考えられる一方で、生きる意味の喪失にならないだろうか?また、仕事を退職した老人の中にはこれからどう生きるべきか悩む人も多いという指摘があった。これらのことから、生きる意味として裏切られる可能性のあるものをおくことは、それが失われたときに絶望するかもしれないし危険なのでは?という意見があった。



自分を俯瞰する自分
これは僕の話なのだが、一部の参加者に共感を得られたので述べておく。
僕には、自分を冷静に観察する自分が存在する。以後これを「彼」と呼ぼう。「彼」は自分が定めた規則を自分が破ろうとする時にそれを止めてくれる。例えば、僕は酒を飲んで羽目を外さないようにしよつという規則を定めている。酒の席になったときは、必ず「彼」によって飲む酒の量が制限される(それでもそこそこ飲むのだが)。また、高校から合唱をやっているのだが、その本番の際にも熱狂的になり発声等が崩れないように「彼」に監視してもらっている。これらを良いと見るか否かは意見が分かれるであろう。
これは一つのリスク回避の手段である。要は自分で自分が制御できなくなることが怖いのである。だから、常に冷静である「彼」を意識することによって、自分の管理下に置くことにしている。そんなことできるの?と思うだろうが、現時点では上手くいっている。
「彼」と生きる意味の関連は何か?それは、僕が生きる意味を設定するなら、それは「彼」の側に置きたいということだ。「彼」の外側にいる自分、つまりは社会の中にいる自分のことなのだが、これは社会的要因に左右されてしまう。この社会的な自分に生きる意味を置くのは、あまりに不安定だという感覚を抱いている。僕にとっての生きる意味は、「彼」のいる内的世界で完結する(と判断する)ものでなければならない。ではそれは何なのか?という話はここでは控えておく。何を言っているかさっぱりかもしれないが、一部の人に共感を得られたのは嬉しかった。



なぜ生きる意味を求めるのか?
生きる意味という問は、多くの人が考えることではないだろうか。では我々はなぜ、このような問にぶつかるのだろう
一つの見方は、人生の大きな壁にぶつかったときに絶望し、生きる意味を考えてしまうというものである。今まで信頼していたものに裏切られる、挫折を経験するなどして、なぜ生きているのか?というところまで落ちてしまうということはたしかにあるかもしれない。
僕が最も関心を持った指摘は、現代において各々が生きる意味を持つように「要請」されているのではないか?というものだ。特にこれは「神」に対する意識が弱まり、「自由」というものが強調されるようになったという。「神」がいた間は、生きる意味を「神」に委ねればよかった。しかし「自由」を手に入れたことで、生きる意味も自分で定めなければいけなくなったのではないか?ということらしい。
ここら辺の話は「自由」とか「神」とかが登場して難しいが、もう少し近いところでもこういったことは見られる。例えば小中学校の道徳の教科書(?)では、いかにして生きるか?という問は、1度は触れるのではないのではないか(ここまで抽象的ではないかもしれないが、いろいろな生き方を提示され、自分はどうするかということを考えたことはないだろうか)。また、ボランティア活動や就職活動の際には、「自己実現」といったような生きる意味に関連しそうな言葉が並んでいる。このようにして我々、は生きる意味に関連するような物事を考えなければならない社会的環境の中にあるのではないか?ということである。そして、生きる意味というものが社会的に要請されるものならば、別に生きる意味はなくても問題ない、ということになる。
これは必死に生きる意味を求める必要はないという安心感を与えてくれる一方が、それでも生きる意味が欲しいんだから欲しいという不満を持つ人もいるだろう。



このような問いの背後にあるものは「無」への恐怖ではないかと思う。この恐怖から出てくるものとして生きる意味の他に自分の存在価値というものがあるだろう(これは因果が逆かもしれない。周りが有意味であるように見えるからこそ、自分自身が「無」であると感じたとき、恐怖を覚えるのかもしれない。)。そもそも、「意味」や「価値」といったものは、我々人間が定めたものと言うことができる。そうであれば、元々全ての人に生きる意味などないし、存在価値もない。自分で自分の存在を認識しているにも関わらず、自分は「無」なのである。

では、我々は「無」に直面したとき、それを受け入れ、屈することしかできないのだろうか。そんなことはない。なぜならこの文脈でいえば、「意味」や「価値」は人間が与えたものであるからだ。我々は自分自身にも「意味」や「価値」を与える、つまりそれらを得る力を持っているのではないか。もちろんそれは簡単なことではない。どんなに他人の助けがあっても、最後に決定するのは自分自身という意味で、非常に重い仕事である。だから、無理してやる必要もない。
そもそも、このような「無」を受け入れている人はいる。別にこのような「無」ということ自体、拒絶するようなものでもないのだ。だが同時に、「意味」や「価値」を得ることは可能であるはずだ。だから、それらがないからと言ってそこで思考を止め、絶望する必要もない。





追記
クリスマスにちゃんとしたクリスマスの話を書く予定です。