終わりについて考える ~哲学対話を通して~

少し前の話だが、駒場祭で「哲学対話」という企画があった。テーマを設定して、それについて対話をするという企画。最終日の最後の2時間をそこで過ごしたのだが、有意義なものだったのでここに記しておく(クソ長いので本編からどうぞ)。


前置き
この企画を見つけたのは駒場祭のパンフで、テーマに「終わり」というものがあったので行ってみることにした。駒場祭の「終わり」としてちょうどいい。哲学対話というものは初めてで、Twitterで募集をかけると同クラが1人捕まり、もう1人誘って3人で行くことになった。

会が始まると、司会が「駒場祭の最後にここに来るとは珍しい人たちですね」と言ったので笑ってしまった。僕はともかく、引き連れてきた同クラ2人は確かに変だ。後々明らかになったのだが、他大の哲学科の女性、学生時代は心理学をされていた社会人、芸術を学問として学んでいる人などがいて、なるほどというメンバーであった。ちなみ司会の人は教養学部で哲学を学んでいるらしい(教養学科の現代思想コースだろうか)。

まず最初に、「終わり」では出発としてあまりに漠然としているので、まずは対話のテーマを決めることになった。「良い終わりとは?悪い終わりとは?」「終わりは終わりであるか?」などさまざまな候補があったが、投票の結果「終わるとなぜ悲しいのか?」というテーマに決まった。
その後は6~7人のグループに別れた対話が2回、最後に全体でまとめが行われた。順に対話の内容と、自分が考えたことを述べてみる。


ここから本編
前半のテーマは「関係の終わりに伴う感情」と言ったところだろうか。
前半の対話は「そこまでは仲良くなかった高校同期の訃報を知ったとき、悲しいというわけでもなく複雑な気持ちになったのだが、これはどういうことなのか?」という提起から始まった。最初の指摘は、「高校卒業によって「高校同期である」ことによる結びつきが弱くなったから、その結びつきの弱くなった「彼」の死を悲しめなかったのではないか?」というものであった。
ここから「結びつきの強さ」によってその結びつきの終わり(ここでは死)に伴う感情が違ってくるのではという話になった。さらに、終わりに伴う感情に影響するものとして、その結びつきを継続をすることを望んでいるか否か(1か0かではなくその程度)、ということも挙げられた。例えば(死というテーマからは逸れるが)、英語が苦手な人にとってALES○の終わりは悲しいというより嬉しいものであろう。
また、結びつきの中には、個人にそれを断つことができるもの、できないものがあり、その違いも終わりに伴う感情に影響するだろうという意見があった。結びつきの継続を望んでいないのに結びつきが絶たれてしまったら悲しいだろうし、断ちたい結びつきが終われば嬉しいであろう。
ところで「死」という終わり (死に限らないが)は、自分も結びつきの相手も終わることを望んでいないのに、第三者の手によって強制的に終わらせられてしまうものである。そういう終わりがあること(突然何かが終わってしまうこと)を知っていることは、今を生きる上で大切ではないか?と意見し、前半の対話が終了した。


後半は、「社会によって規定された「終わり」という概念」についての議論であった。
面白かった指摘は「卒業は「悲しい」とされているが、本当は卒業に伴う「悲しみ」をある意味で楽しんでいるのでは?」というもの。たしかに卒業式で泣く人は泣くし、泣かなくてもある種の感慨深さを抱くのではないだろうか。しかし、その悲しみにずっと浸っているということもなく、数日もすればぴんぴんと友達と遊んでいる、ということはたしかによくある。
他に葬式の例が上がった。喪服を着ることによって悲しみ、死を悼む気持ちを表現する。これは実際の感情とは関係なく、社会的なマナーである。このような例から、「終わり」というものは「悲しい」ということが社会的に印象づけられているのでは?という意見が出た。そしてこういった印象付けは幼稚園・小学校…の教育を通して行われているのではないか?という意見も出た。ここまできて後半の対話も終了。


全体でのまとめでは、前半の対話にあった「誰かが死んだけど悲しめない」自分にを違和感抱いている人がいたのだが、そういう人が意外と多くて安心したという感想があった。終わりに伴う感情は結局多種多様であり、簡単に規定されるものではないだろうという話でまとまった。しかし、我々の感覚に「終わりは悲しい」ということが根付いていることも事実であり、そのために死を悲しめないことに違和感を覚えるのだろうという意見もあった。


最後に、この対話を通して自分が「終わり」について思ったことを述べておく。
先ほどは割愛したが、後半の対話で「ある人の死はその人の終わりか?」という提起があった。これに対して、「その人が残したものがある限りはその人は終わっていない」「死んで火葬された後も分子レベルで存在する?」という意見があった。ここで注目したいのは、ある人の死を考える際に、その「ある人」とは何をどこまでを指すのか、と考えているということだ。我々は普段そこまで「ある人」の構成要素について考えているだろうか?
また、最初にあげた高校同期の死の例にしても、意識の外にあった高校同期が、死を通して彼の意識の中に再び現れ、何らかの効果をもたらしたのである。
人に限らずあるものの「終わり」はその「もの」を思い出させ、その「もの」対して改めて考えるきっかけを与えてくれるのではないだろうか。卒業の例もそうではないか。1,2年生の頃は特に高校生活に思い入れを感じたりしないと思うのだが、卒業が近くなると過去を振り返り、高校生活に思いを馳せ、今のうちにクラスの友達と遊んでおこうとか、あれをやっておけばよかったと後悔するのではないだろうか。

また、「学生のうちにあれをやっておけ」という言説が成り立つのも、「学生」に終わりがあるからである。死という人生の終わりはどうだろうか。死というものが存在するから、いつか終わりが来るから、どう生きようかということを考えるのではないだろうか。

こう考えてみると、「終わり」というものを意識することで初めて、「今」というものが意識されるのではという気がしてくる。「終わり」の存在は「今」を生きる糧となり、人生を豊かにしてくれるのだ。と、ありふれていそうな言葉を並べて終わりとしたいと思う。

最後まで読んでいただいた方、ありがとうございました。


P.S.
哲学対話に興味を持った方がいれば、情報をいくつか持っているので一緒に行きましょう笑