ベイズの定理とヒューリスティック

久々に書きたくなったので書きます。学問ネタは初めてなので間違ったこと書いてないか心配です(致命的なミスはないはず...)。ググれば無限に出てくるネタですが、まあ自分のアウトプットの練習として。

 

先日、TwitterのTL上でこんな問題が話題になりました(一部改めてあります)。

「Aは100人に1人の割合でかかる病気Xに自分がかかっているかを知りたくなった。病気Xに検査薬で検査したところ、陽性であった。この検査薬が正しい確率は99%であり、Xにかかっていないにもかかわらず陽性を示す確率は1%である。また、Xを患っている場合は必ず陽性を示す。このとき、AがXを患っている確率はいくつか。」

賢明な皆さんであれば、正確に答えることができるかもしれません。「検査薬が陽性を示した時に、実際にXにかかっている条件付き確率」を求めればいいのですから

 (検査薬が陽性を示す確率)=0.01*0.99+0.99*0.01=0.02*0.99

   (Xにかかっているときに検査薬が陽性を示す確率)=0.01*0.99

より、(0.01*0.99)/(0.02+0.99)=0.5 つまり50%となります。

 この計算結果を見て、不思議に思う人が多いことかと思います。検査薬は99%の確率で正しい結果を示してくれるはずなのに、実際にXにかかっている確率は50%まで落ちてしまうのです。

 次に、こんな問題を考えてみましょう。

「ある夜に、タクシーがひき逃げ事件を起こした。その町では、緑のタクシーと青のタクシーが営業している。タクシーの比率は85%がタクシー、15%が青タクシーである。ある目撃者が言うには、事故を起こしたタクシーは青だったという。そこで事故が起きた状況で目撃証言の信頼性をテストしたところ、80%は正しく色を判断できたが、20%は誤りであった。このとき、事故を起こしたのが本当に青タクシーである確率はいくつか。」

同様の計算で答えが導けます。「目撃者が青タクシーだと証言したときに実際に青タクシーであった確率」なので

   (0.15*0.8)/(0.15*0.8+0.85*0.2)≒0.41

と。41%となります。

 この問題は実験に使われていて、被験者の多くが青タクシーが犯人である確率を80%前後と推定したといいます。そんなの条件付き確率の知識がないだけやろと思うかもしれませんが、パッと出題されたらまあ80%ぐらいかなあと思うのではないでしょうか。

 

ベイズの定理

 上2つの問題の計算過程ではベイズの定理を使っています。ベイズの定理というのは簡単に言うと(詳細はぐぐってください)、事象Aと事象Bに対して、事象Aが起こった時に事象Bが起きている確率P(B|A)が

   P(B|A)=P(A∩B)/P(A)

で求まるというものです。以後、P(B|A)を事後確率と呼びます。

さて、タクシーの問題ではAが「目撃者が青タクシーだと証言する」Bが「青タクシーが犯人である」となります。また、緑タクシーが85%、青タクシーが15%という情報がありましたが、この確率のことを事前確率と言います。また、目撃者の証言の信頼度は尤度と呼ばれます。ベイズの定理は、事前確率と尤度から事後確率を導く定理というわけですしかし、実験被験者の多くは青タクシーが犯人である確率は80%だと答えました。つまり、本来事前確率と尤度を用いて事後確率を計算すべきところを、事前確率を無視して尤度に謎の微調整を事後確率を推定していると考えられます。これを事前確率の無視と呼ぶことにしましょう。そして正しい解答を導けたとしても「直感に反する」だとか「不思議だな」といった感想は、この事前確率の無視から来ていると考えられます。この事前確率の無視には、人間の判断や意思決定を支えるヒューリスティック(heuristic)というものが関わっています。

 

ヒューリスティックとは?

 ヒューリスティックというのは、必ずしも正確な解は得られないが、近似解が期待できる方法のことをいいます。特長は、回答に至るまでの時間が短縮できることです。対置される概念としてアルゴリズム(algorithm)があります。アルゴリズムは、必ず正しい解を返すことのできる一連の手順のことをいいます。

 人間は記憶や推論に使用できる認知資源に限りがあります。アルゴリズムというのは場合によっては複雑であったり、計算量が多かったりするので、代わりにヒューリスティックを用いることで処理の複雑さを軽減しているのです。

 繰り返しになりますが、ヒューリスティックは簡単に用いることができて、回答までの時間を短縮できます。一方で、必ずしも結果は正しくなく、結果には系統的な歪みが生じることが生じることがあります。そして、事前確率の無視は、このヒューリスティックによるものだという説明ができるのです。事前確率の無視を説明する2つのヒューリスティックを見ていきましょう。

 

代表性ヒューリスティック

代表性ヒューリスティック(representative heuristic)とは、ある事例の起こりやすさ(確率)を、典型例(いわゆるステレオタイプ)と類似している程度によって判定する方法のことをいいます。対象が典型例と類似しているほど、代表制ヒューリスティックが生じやすくなります。

有名な例としてこんなものがあります。

「リンダは、独身で31祭の率直な聡明な女性である。彼女は大学では哲学を専攻した。また、学生時代は人種差別や社会正義の問題に関心を持ち、反核デモに参加していた。

ここで、リンダについてどちらの可能性が高いだろうか?」

 A:「銀行員である」

B: 「フェミニストの銀行員である」

みなさんはどちらを選びますか?

集合論的に考えれば、当然Aの方が確率は高いはずです。ところが、この問題での実験参加者の約90%がBを選んだのです。ここでリード文を見てみると、たしかに「フェミニストっぽい」フレーズがちりばめられています。実験参加者は代表制ヒューリスティックによって、リンダについての説明文と銀行員やフェミニストの典型例との類似性から可能性を判断したのです。このような誤りは連言錯誤と呼ばれています。実験室の中でならよいですが、これが社会的ステレオタイプとなると面倒です。例えば「東大生だから○○だ」「理系/文系だから」という言説には困らされることがあるでしょう。

 さて、この代表制ヒューリスティックから事前確率の無視を捉えてみます。事故の犯人のタクシーを推定するとき、町のタクシーの比率で判断するより、目撃者の証言で判断する方が代表的なわけです。そのため判断材料として目撃者の証言の方に偏ってしまうことになります。最初に挙げた病気の例も、検査薬の結果で判断するのが代表的だとして、そちらに引っ張られるわけです。

 

 さて長くなってしまって僕も疲れてきたのであとは簡単に終わらせますが、事前確率の無視には係留と調整ヒューリスティック(anchoring and adjustment heuristic)を用いた説明も可能です。このヒューリスティックは始めの値を錨(anchor)のように基準値として設定して、そこからわずかな調整だけで最終的な結果が決まってしまうということです。事前確率の無視といっても完全に無視されているというわけではないとされているのですが、タクシー問題の例でいえば、一度目撃者証言の信頼度に基準を定めてしまうため、そこからわずかにしか推定値が変化しないのでしょう。

 

 事前確率の無視についての教科書的な説明をしてきましたが、実はこれはおかしいのではないかという議論もあります(問題文は妥当か、ここでいう「確率」とは数学的な確率なのか?%表記ではなく頻度表記にするとうまくいく...etc)が、それはここではやめおきましょう(笑)。

 

参考:教養としての認知科学 (鈴木宏明 著 東京大学出版会)

  認知心理学 (箱田裕司 編 有斐閣)

       ゲーム理論入門 (渡辺隆浩 著 日本経済新聞出版社)

振り返り

明日から大学3年生になるのでこの2年を軽く振り返ってみた。ゆるい話です。

 

講義

まあもっと真面目に出ておくべきだったと思う(笑)。聞かなくてもいないよりは教室にはいた方がまだ後々の勉強のモチベになるし理解度も意外と違った(笑)。特に数学はちゃんとやっておくべきだったし、取らずに後悔している総合科目もある(記号論理学とか記号論理学とか…)。自分は制度に甘える人間なのだなと気付かされた(最近これを思わされることが多い)。

 

進振り

最初は物理やりたいな~と思っていたけど結果的に心理学に近いものをやろうとしている(また変わるかもしれないけど)。いろいろな講義の影響を受けたなあと思う。必修の情報がなければ情報科学に目を向けようとも思わなかっただろう。ジェンダー論とか社会行動論とかでは文転まであるとまで思わされた。今の学科の存在を知ったのも計算の理論という講義だった。自分の興味にはどうやら認知科学という名前がついているらしいというのを知ったのは学科が決まった後の2Aだった(笑)。そういう意味では前期課程のシステムの恩恵に預かったと思う(振り回されたとも言える?)。進振り点も困るようなレベルではなかったのは幸運だった。

ちなみに最後は理情と教養学部学際科学科B群(長い)で悩んだが、後者に心がやや傾いているときに某氏の言う「伊達と酔狂」という言葉に後押しされて決断に至ったというのは印象に残ることだった。割と感謝している。

 

クラス

理一28組で本当に良かったと思う。クラコンは半分くらいしか人来ないし仲が良かったかというと微妙だが、これくらいの緩い結びつきは心地よかった。なんだかんだ似た波長を感じる人間もいたのでそれも良かったかもしれない。そして数強の多いこと(笑)。今でもお世話になっているし、結局自分が数学に再び興味をもてたのは彼らの影響が大きい。特に数学科の皆さんはこれからも駒場で一緒なので連絡が取りやすいしこの点においては教養学部最高(?)。

 

Twitter

一番よかったのはやはり多くの人と繋がれたことだと思う。割と仲良くなった(と思っている)人もいる。東大の中の強い人たちを見て良くも悪くも刺激を受けることができたし、やってて良かったと思っている。ただしTwitterに時間を使いすぎたのはそうなので少し反省はしている。

よくなかったのは人間の悪い面をたくさん目にしたところ(笑)。人間ダメだなあと思わされることがたくさんあった。そして自分もダメになっていった。優しい人間でありたかった。

まあ今後も細々と続けていくのでしょう。

 

音ゲー

1年の冬から本格的に始めた。比較的短期間で、目に見える形で成長があるので精神衛生上にとてもいい。ただしお金と時間は溶ける。5000兆円あっても時間がない。

 

ウマゴン

小学校の頃から遊んでいて、中学のときに1度屋根裏に押しやったのだが、夏の掃除のときに再び目にしたところまたハマってしまった。イライラしているときにいじると心が落ち着く。

 

1年の頃は色々なもの手を出してみたが、結果として悩み苦しみ、2年の頃から少しずつ捨て始めながらボロボロになり、今残っているのは勉強への多少のモチベと多少の友人(とTwitter(?))ぐらいだ。この2年で生きることには正直疲れたが、学びたいことはあるし仲良くしてくれる人もいるのでもう少し頑張ろうと思う。

クリスマスに寄せて

クリスマスですね。皆さんいかがお過ごしでしょうか。クリスマスというのはカップルがいちゃいちゃする日でもなくせいなる日でもなく、イエスキリストの誕生を祝う日です。誕生日と言わないのは、実際に生まれたのは春先ではないか?という説があるからです。まあそういう話は今回置いておいて、なぜイエスキリストの誕生日を祝うイベントがこんなに続いているのか、その意義を確認しながら見てみましょう。宗派によって微妙に解釈が違うところがあるかもしれませんが、大切なところはずれていないはずです。まあこんな話を信じるなんてと思うでしょうが、教養として知っておいてもいいと思いますよ。

 

 

話は世界の始まりまでに遡ります。キリスト教では、この世界は「神」によって創造されたとしています。我々人間も同様です。神は、神に似たものとして人間を創りました。まず最初に創られたたのはアダムという男性です。聖書から引用してみます。

「神は仰せられた。『さあ人をつくろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。』」(創世記1:26)

しかし神はこれで満足しません。「人が一人でいるのはよくない」として、エバ(イヴという呼び名をよく聞くかもしれませんが、僕の持っている聖書(新改訳 第三版)ではこのように訳されているので、それを採用します)という女性です。また聖書を見てみます。

「神である主は仰せられた。『人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。』」(創世記2:18)

「神である主は、人(アダムのこと)から取ったあばら骨をひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れてこられた。人は言った。 『これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女(ヘブル語で『イシャ』)と名付けよう。これは男(ヘブル語で『イシュ』)から取られたのだから。』」(創世記2:22-23)

まあこの男のセリフは世界初のラブソングみたいなものです。神曰く人が一人でいるのはよくないそうです。そうですか。 さて、2人はエデンの園というところにぶち込まれ、ほかの生き物に名前をつけろなどという指示を神から受けます。そして、エデンの園にある「善悪の知識の木の実」以外は好きにとって食べて良いと言われます。

「神である主は仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からはとって食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。』」(創世記2:16-17)

しかし、あるとき蛇がエバをそそのかします。「あらゆる獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。」(創世記3:1) 善悪の知識の木の実を食えば賢くなるから食べてみろというのです。その誘惑に負けたエバはアダムに一緒に善悪の知識の実を食べるようそそのかします。この頃から男は女に弱いようで、結局2人とも善悪の知識の実を食べてしまいました。

「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。」(創世記3:7)

これが、キリスト教での大切な概念である「罪」の始まりです。

「彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園を歩き回られる神である主の声を聞いた。そこで、人とその妻とは神である主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。 神である主は人に呼びかけ、彼に仰せられた。『あなたはどこにいるのか』。 彼は答えた、『私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。』 すると、仰せになった。『あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか』。 人は言った。『あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです』。 そこで神である主は女に言われた、『あなたは、いったいなんということをしたのか。』女は答えた。「蛇ががわたしを惑わしたのです。それで私は食べたのです。』」 (創世記 3:8-13 )

もちろん、神は食べるなと言ったものを食べたことを責めます。するとアダムはこれをエバのせいにするのです。なんという奴でしょう。そしてエバはこれを蛇のせいにします。彼らの姿に共通するのは、自分たちの犯した「罪」を認めず、他のもののせいにすることです。これも、善悪の知識の木の実を食べてしまったことによる「罪」です。

しかし、最も大切な「罪」は神から逃げ隠れしようとしていることです。神の「あなたはどこにいるのか。」という問いは、場所の意味だけでなく、神との関係においてどこにいるのか、という問いとも言えます。神と向き合い、神に従っていた人が、神から離れてしまったのです。

こうして彼らに罰が下ります。蛇は足を奪われ、地をはう生き物になってしまいました。女は苦しんで子を産まなければいけなくなりました。男は苦しんで食を手にいれなければいけなくなりました。そして、いつかは土に帰り、死んでしまうことを運命づけられました。もちろんエデンの園からは追い出されます。

さてここから人間はさまざまな「罪」を犯します。アダムとエバの間には、カインとアベルという二人の息子ができますが、なんとカインはアベルを殺してしまいます。また、時間が飛びますが、有名な「ノアの方舟」の話は人間が全然神のいうことを聞かず「罪」を犯してばっかりだからノアの家族と動物以外抹殺しようというものです(雑)。 さて、果たして人間はもう「罪」の奴隷となり滅び行く存在のままになってしまったのでしょうか。そうではありません。神は人を愛しておられました。だからこそ、なんとかして人間を「罪」から救おうとしたのです。そこで鍵を握るのがイエスキリストなのです。

 

まず、神は「三位一体」である。という話があります。神は「父なる神」「子なる神」「政令なる神」の三種類あります。これらは別々なのですが、深い「愛」のために一つとみなせる、というのが「三位一体」です。そして、イエスキリストはこの「子なる神」にあたります。上で出てきた神は「父なる神」です。

さて、神の人間を救う計画はざっくり言うとこうです。まず、「子なる神」をイエスキリストという一人の人間として地上に下ろします。このイエスキリストは人間であると同時に神であり、人間と決定的に違うところは「罪」がないということです。そしてご存知の通り、イエスキリストは十字架という最も重い刑に処せられ、死にます。これは本来「罪」にまみれた我々人間が受けるべき刑です。それを「罪」のないイエスキリストが肩代わりしてくれたのです。そして驚いたことにイエスキリストは死んで三日後に「復活」します。これをもって、「罪」からの勝利とするわけです。そして、これらのことを信じる人間は、「罪」が赦され、「永遠の命」を手に入れることができる、というわけです。

つまりは、このイエスキリストというのは、人間を罪から救う「救世主」なんですね。だから、イエスキリストの誕生はめでたいわけです。

 

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。」(ヨハネ福音書3:16-21)

 

「罪」の始まりに行を割いてしまったような気がしますが、まあいいでしょう。ざっくり言えば罪からの救い主の誕生だからこんなに祝われるということです。本当はイエスキリストの誕生がどんなものであったかも書いておくべきなのかもしれませんが、これくらいにしおきましょう(笑)。

「生きる意味」は必要か? 【12/18哲学カフェ】

とある哲学カフェにお邪魔した。テーマは「生きる意味は必要か?」 テーマから逸れる話もあったが、面白いと思ったものを中心に議論をまとめながら、自分が考えたことを述べたい。なかなか詰めきることができず、妥協した部分が多いがご了承頂きたい。

インカレの哲学カフェ団体で、Twitterアカウントから詳細を知り応募。テーマがテーマなので参加人数が多かった。適当なカフェに行き、そこで議論をするというスタイル。僕はアーモンドチョコシェイクを頼んだ。甘かった。


以下議論の記録。
興味深い話は多かったが、私的な部分も多く割愛した部分もある。

生きる意味の喪失
例えば、「真理」を追い求めている科学者が、もし「真理」を見つけてしまったら、満足考えられる一方で、生きる意味の喪失にならないだろうか?また、仕事を退職した老人の中にはこれからどう生きるべきか悩む人も多いという指摘があった。これらのことから、生きる意味として裏切られる可能性のあるものをおくことは、それが失われたときに絶望するかもしれないし危険なのでは?という意見があった。



自分を俯瞰する自分
これは僕の話なのだが、一部の参加者に共感を得られたので述べておく。
僕には、自分を冷静に観察する自分が存在する。以後これを「彼」と呼ぼう。「彼」は自分が定めた規則を自分が破ろうとする時にそれを止めてくれる。例えば、僕は酒を飲んで羽目を外さないようにしよつという規則を定めている。酒の席になったときは、必ず「彼」によって飲む酒の量が制限される(それでもそこそこ飲むのだが)。また、高校から合唱をやっているのだが、その本番の際にも熱狂的になり発声等が崩れないように「彼」に監視してもらっている。これらを良いと見るか否かは意見が分かれるであろう。
これは一つのリスク回避の手段である。要は自分で自分が制御できなくなることが怖いのである。だから、常に冷静である「彼」を意識することによって、自分の管理下に置くことにしている。そんなことできるの?と思うだろうが、現時点では上手くいっている。
「彼」と生きる意味の関連は何か?それは、僕が生きる意味を設定するなら、それは「彼」の側に置きたいということだ。「彼」の外側にいる自分、つまりは社会の中にいる自分のことなのだが、これは社会的要因に左右されてしまう。この社会的な自分に生きる意味を置くのは、あまりに不安定だという感覚を抱いている。僕にとっての生きる意味は、「彼」のいる内的世界で完結する(と判断する)ものでなければならない。ではそれは何なのか?という話はここでは控えておく。何を言っているかさっぱりかもしれないが、一部の人に共感を得られたのは嬉しかった。



なぜ生きる意味を求めるのか?
生きる意味という問は、多くの人が考えることではないだろうか。では我々はなぜ、このような問にぶつかるのだろう
一つの見方は、人生の大きな壁にぶつかったときに絶望し、生きる意味を考えてしまうというものである。今まで信頼していたものに裏切られる、挫折を経験するなどして、なぜ生きているのか?というところまで落ちてしまうということはたしかにあるかもしれない。
僕が最も関心を持った指摘は、現代において各々が生きる意味を持つように「要請」されているのではないか?というものだ。特にこれは「神」に対する意識が弱まり、「自由」というものが強調されるようになったという。「神」がいた間は、生きる意味を「神」に委ねればよかった。しかし「自由」を手に入れたことで、生きる意味も自分で定めなければいけなくなったのではないか?ということらしい。
ここら辺の話は「自由」とか「神」とかが登場して難しいが、もう少し近いところでもこういったことは見られる。例えば小中学校の道徳の教科書(?)では、いかにして生きるか?という問は、1度は触れるのではないのではないか(ここまで抽象的ではないかもしれないが、いろいろな生き方を提示され、自分はどうするかということを考えたことはないだろうか)。また、ボランティア活動や就職活動の際には、「自己実現」といったような生きる意味に関連しそうな言葉が並んでいる。このようにして我々、は生きる意味に関連するような物事を考えなければならない社会的環境の中にあるのではないか?ということである。そして、生きる意味というものが社会的に要請されるものならば、別に生きる意味はなくても問題ない、ということになる。
これは必死に生きる意味を求める必要はないという安心感を与えてくれる一方が、それでも生きる意味が欲しいんだから欲しいという不満を持つ人もいるだろう。



このような問いの背後にあるものは「無」への恐怖ではないかと思う。この恐怖から出てくるものとして生きる意味の他に自分の存在価値というものがあるだろう(これは因果が逆かもしれない。周りが有意味であるように見えるからこそ、自分自身が「無」であると感じたとき、恐怖を覚えるのかもしれない。)。そもそも、「意味」や「価値」といったものは、我々人間が定めたものと言うことができる。そうであれば、元々全ての人に生きる意味などないし、存在価値もない。自分で自分の存在を認識しているにも関わらず、自分は「無」なのである。

では、我々は「無」に直面したとき、それを受け入れ、屈することしかできないのだろうか。そんなことはない。なぜならこの文脈でいえば、「意味」や「価値」は人間が与えたものであるからだ。我々は自分自身にも「意味」や「価値」を与える、つまりそれらを得る力を持っているのではないか。もちろんそれは簡単なことではない。どんなに他人の助けがあっても、最後に決定するのは自分自身という意味で、非常に重い仕事である。だから、無理してやる必要もない。
そもそも、このような「無」を受け入れている人はいる。別にこのような「無」ということ自体、拒絶するようなものでもないのだ。だが同時に、「意味」や「価値」を得ることは可能であるはずだ。だから、それらがないからと言ってそこで思考を止め、絶望する必要もない。





追記
クリスマスにちゃんとしたクリスマスの話を書く予定です。

終わりについて考える ~哲学対話を通して~

少し前の話だが、駒場祭で「哲学対話」という企画があった。テーマを設定して、それについて対話をするという企画。最終日の最後の2時間をそこで過ごしたのだが、有意義なものだったのでここに記しておく(クソ長いので本編からどうぞ)。


前置き
この企画を見つけたのは駒場祭のパンフで、テーマに「終わり」というものがあったので行ってみることにした。駒場祭の「終わり」としてちょうどいい。哲学対話というものは初めてで、Twitterで募集をかけると同クラが1人捕まり、もう1人誘って3人で行くことになった。

会が始まると、司会が「駒場祭の最後にここに来るとは珍しい人たちですね」と言ったので笑ってしまった。僕はともかく、引き連れてきた同クラ2人は確かに変だ。後々明らかになったのだが、他大の哲学科の女性、学生時代は心理学をされていた社会人、芸術を学問として学んでいる人などがいて、なるほどというメンバーであった。ちなみ司会の人は教養学部で哲学を学んでいるらしい(教養学科の現代思想コースだろうか)。

まず最初に、「終わり」では出発としてあまりに漠然としているので、まずは対話のテーマを決めることになった。「良い終わりとは?悪い終わりとは?」「終わりは終わりであるか?」などさまざまな候補があったが、投票の結果「終わるとなぜ悲しいのか?」というテーマに決まった。
その後は6~7人のグループに別れた対話が2回、最後に全体でまとめが行われた。順に対話の内容と、自分が考えたことを述べてみる。


ここから本編
前半のテーマは「関係の終わりに伴う感情」と言ったところだろうか。
前半の対話は「そこまでは仲良くなかった高校同期の訃報を知ったとき、悲しいというわけでもなく複雑な気持ちになったのだが、これはどういうことなのか?」という提起から始まった。最初の指摘は、「高校卒業によって「高校同期である」ことによる結びつきが弱くなったから、その結びつきの弱くなった「彼」の死を悲しめなかったのではないか?」というものであった。
ここから「結びつきの強さ」によってその結びつきの終わり(ここでは死)に伴う感情が違ってくるのではという話になった。さらに、終わりに伴う感情に影響するものとして、その結びつきを継続をすることを望んでいるか否か(1か0かではなくその程度)、ということも挙げられた。例えば(死というテーマからは逸れるが)、英語が苦手な人にとってALES○の終わりは悲しいというより嬉しいものであろう。
また、結びつきの中には、個人にそれを断つことができるもの、できないものがあり、その違いも終わりに伴う感情に影響するだろうという意見があった。結びつきの継続を望んでいないのに結びつきが絶たれてしまったら悲しいだろうし、断ちたい結びつきが終われば嬉しいであろう。
ところで「死」という終わり (死に限らないが)は、自分も結びつきの相手も終わることを望んでいないのに、第三者の手によって強制的に終わらせられてしまうものである。そういう終わりがあること(突然何かが終わってしまうこと)を知っていることは、今を生きる上で大切ではないか?と意見し、前半の対話が終了した。


後半は、「社会によって規定された「終わり」という概念」についての議論であった。
面白かった指摘は「卒業は「悲しい」とされているが、本当は卒業に伴う「悲しみ」をある意味で楽しんでいるのでは?」というもの。たしかに卒業式で泣く人は泣くし、泣かなくてもある種の感慨深さを抱くのではないだろうか。しかし、その悲しみにずっと浸っているということもなく、数日もすればぴんぴんと友達と遊んでいる、ということはたしかによくある。
他に葬式の例が上がった。喪服を着ることによって悲しみ、死を悼む気持ちを表現する。これは実際の感情とは関係なく、社会的なマナーである。このような例から、「終わり」というものは「悲しい」ということが社会的に印象づけられているのでは?という意見が出た。そしてこういった印象付けは幼稚園・小学校…の教育を通して行われているのではないか?という意見も出た。ここまできて後半の対話も終了。


全体でのまとめでは、前半の対話にあった「誰かが死んだけど悲しめない」自分にを違和感抱いている人がいたのだが、そういう人が意外と多くて安心したという感想があった。終わりに伴う感情は結局多種多様であり、簡単に規定されるものではないだろうという話でまとまった。しかし、我々の感覚に「終わりは悲しい」ということが根付いていることも事実であり、そのために死を悲しめないことに違和感を覚えるのだろうという意見もあった。


最後に、この対話を通して自分が「終わり」について思ったことを述べておく。
先ほどは割愛したが、後半の対話で「ある人の死はその人の終わりか?」という提起があった。これに対して、「その人が残したものがある限りはその人は終わっていない」「死んで火葬された後も分子レベルで存在する?」という意見があった。ここで注目したいのは、ある人の死を考える際に、その「ある人」とは何をどこまでを指すのか、と考えているということだ。我々は普段そこまで「ある人」の構成要素について考えているだろうか?
また、最初にあげた高校同期の死の例にしても、意識の外にあった高校同期が、死を通して彼の意識の中に再び現れ、何らかの効果をもたらしたのである。
人に限らずあるものの「終わり」はその「もの」を思い出させ、その「もの」対して改めて考えるきっかけを与えてくれるのではないだろうか。卒業の例もそうではないか。1,2年生の頃は特に高校生活に思い入れを感じたりしないと思うのだが、卒業が近くなると過去を振り返り、高校生活に思いを馳せ、今のうちにクラスの友達と遊んでおこうとか、あれをやっておけばよかったと後悔するのではないだろうか。

また、「学生のうちにあれをやっておけ」という言説が成り立つのも、「学生」に終わりがあるからである。死という人生の終わりはどうだろうか。死というものが存在するから、いつか終わりが来るから、どう生きようかということを考えるのではないだろうか。

こう考えてみると、「終わり」というものを意識することで初めて、「今」というものが意識されるのではという気がしてくる。「終わり」の存在は「今」を生きる糧となり、人生を豊かにしてくれるのだ。と、ありふれていそうな言葉を並べて終わりとしたいと思う。

最後まで読んでいただいた方、ありがとうございました。


P.S.
哲学対話に興味を持った方がいれば、情報をいくつか持っているので一緒に行きましょう笑

ご挨拶

こんにちは。∑(@sinsincoscos)です。Twitterで考えていることを垂れ流していますが、140字の限界を感じたのと、考えていたことを振り替えれるようにしておきたいと思い、ブログを始めることにしました。よろしくお願いします。
今晩一つ投稿する予定です。